恵那墓

@entk_fu

日記/6月20日 携帯が割れた話

オタクもすなる日記といふものを 僕もしてみむとてするなり。

 


iPhoneが割れた。うっかり床に落としてしまい液晶を覆うガラス全体にヒビが入った。モロに衝撃を受けた角の部分に至っては若干白化もしている。

僕はショックを受けていた。スマートフォンを持つようになって以来一度も画面を割ったことはなく、それどころかバキバキに割れた画面の携帯を使う人間を見ては「どんな使い方してんだ?フリスビーにでもしてるんか?」なんてこっそり心の中で考えてすらいた。そんな携帯の取り扱いにある程度自信があった僕がついに携帯を割ってしまったからだ。

 


ひび割れた画面のスマートフォンを使うことは思った以上に気持ちが悪かった。文字を打つのも読むのも不便だ。文字列を眺めていると当然ノイズが挟まってくる。不快。文字を打ったりTwitterのタイムラインを動かしたりするとヒビが指に引っかかる感覚がある。というか指先にガラスの粉が付くこともある。ジョリッ、といった音なんかも立つ。ごく稀に突然茹で卵の殻のようにガラスがペリっと剥離するかもしれない、といった不安感も発生する。不愉快。こんな経験は初めてだ。一刻も早く治したいが──

 


──見た目に限って言えば案外悪くない。それどころか、これはこれでカッコいいじゃん…なんてことも考えてしまう。先述のような不満さえ無ければもしかしてこのままでも良いんじゃないか?と思う程度には。

 


まずヒビが綺麗だ。画面を不規則に走るノイズではあるものの、稲妻のようであると言われればカッコいいものに見えてくる。iPhoneを傾けてヒビを見るとディスプレイの光や証明を反射して複雑な色味を出す。白化した角の部分もまた良さがある。衝撃の方向を示すが如く放射状に拡散しているのは中々に気持ちが良いものである。趣深い。弾痕ステッカーが発売されるのも頷ける。写真を撮れるデバイスが今の携帯しかないのでこの様子をシェアできないのが悔やまれる。ガラスの割れは見た目は悪くない。むしろ綺麗なものなのだ。

 

しかしそんな純朴な感情を抱けたことよりも、何よりも気持ちがいいと思えたのは、「秩序」を侵略する「無秩序」、それがもたらす「カタルシス」によるものなのではないか?と僕は考えた。


iPhoneのデザインを見て感想を一言述べよ、と人に訊いたら大半は「シンプル」とか「機能的」とか「スタイリッシュ」といった回答を出すだろう。こうした要素をまとめると即ち「秩序」的になると言える。対して、画面の上を不規則に走り回り、携帯の使用をほんの少しだけ妨害するひび割れは即ち「無秩序」的なものである。落としたiPhoneの画面を見た時、ショッキングな気持ちにほんの少しだけ混ざった言いようのないプラスの感情は、きっと「秩序」が「無秩序」に侵略されたことに対する「カタルシス」だったんだろうな…と今になって思う。

 

……僕は窓ガラスが割れるのが好きなことを思い出した。

 

 

▼▼▼

子供の頃から、画面の中で暴れまわる怪獣やロボットが巨大なビルなどの建造物を破壊するのが好きだった。熱線や爆発、果てはそれらが保持する質量によって、人々が造り上げた文明の象徴の一つである高層ビルを容赦なく破壊する。飛散する瓦礫。上がる土煙。成すすべもなく失われる本来の機能、カタチ。ちまちまと一生懸命積み上げてきたモノを一瞬で跡形もなく破壊することはどの時代においても不変的かつ普遍的に人々に快感を知覚させてきた。

 

そうした建造物の破壊の中でも、僕は「窓ガラスが割れる」ことに特別な感情を抱いている。鈍く轟く爆発音の中で奏でられる、不釣り合いな程に透き通った破砕音も、陽光や都市街灯をランダムに反射して輝きながら無数の破片が落下する様子も美しいと思う。巨大な破壊に内在する一種の清涼剤であるように感じられる。ガラスが割れるのは本当に愉しいものだ。

 

 

このような嗜好を持つに至ったのはおそらく中学生の時に触れた「マクロスプラス」と「機動警察パトレイバー2」の二作品が原因であると思う。これらが魅せた理想的な窓割れが、僕の心をガッシリと掴んで離さない。両作品共に物語内の主張は深いところに存在しており、それを語りたい気持ちはあるが、今回は窓が割れるのが良い、というところだけをピックアップして話を展開させる。

 

 好きな窓割れを紹介しよう。

 

まずは「マクロスプラス」の中に出てきた窓割れだ。

舞台は無人マクロスシティ。イサム・ダイソンが操るYF-19エクスカリバー〉でガルド・ゴア・ボーマンのYF-21〈シュトゥルムフォーゲル〉を追いかけるドッグファイトが展開される。その中のワンシーンだ。

〈シュトゥルムフォーゲル〉がビルの横を音速で飛行して抜けていく。画面からフェードアウトした一瞬後に、衝撃波で大量の窓ガラスが崩壊する。

 

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芸術だ。理想的としか言えない。気になったらマクロスプラスを観るべきだ。

 

次に「機動警察パトレイバー2 the movie」の窓割れ。

柘植行人(つげゆきひと)が率いる自衛隊クーデター部隊が戦闘ヘリコプター・AH-88〈ヘルハウンド〉を駆り、ベイブリッジや中央官庁の電波設備、オフィスを中心に東京を破壊するシーン。その中の一部分。〈ヘルハウンド〉がガトリングガンで、あるオフィスを砲撃する。窓ガラスごとだ。中に居た人々は直撃こそしなかったものの衝撃に吹き飛ばされ、下に配備されていた警察の特殊部隊は落下してきたガラス片に狼狽する。前者と比べていささか地味ではあるが、人に明確に被害を与えているのが差異であり良いところだ。

 

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両者の間に、意図的に破壊を発生させたかそうでないかの違いはあるが「人の手には負えない巨大な力を持った空飛ぶ金属塊が窓ガラスをブチ割った」ことには変わりない。さらに言えばどちらも「無秩序」という点においては同一である。

 

窓ガラスとは即ち、人の生活に秩序をもたらし、秩序を守り、秩序の境界を設定するものである。人の生活の数だけ窓ガラスは存在している。故にそれは「秩序」の象徴であると言っていいだろう。窓ガラスが整然と並び街の風景を演出するのはまさしく秩序である。なので有名な「割れ窓理論」はこれを端的に示していると言える。

 

よって窓ガラスが割れることは、「秩序」が「無秩序」に蹂躙されることの象徴なのだ。例えばのび太が空き地で放ったボールは窓ガラスを踏み越えると、カミナリオヤジの感情の秩序をかき乱す。

 

時間をかけて堆積させた秩序を一瞬で「無秩序に」崩壊させることに快感を覚えるのが、つまりカタルシス*1であると僕は思う。カタルシスとは元々舞台用語であったことが示すように、物語において破壊とは観客の感情を動かす上での重要なファクターたり得る。つまり「秩序」が「無秩序に」蹂躙されることで観客の感情が動くのだ。

 

のび太が「無秩序に」放ったボールがカミナリオヤジの「秩序」を破壊してしまったが故に「ボールの奪還」という使命に重みが増し、のび太に自己投影をする上で認識する緊張が強いものになる。「マクロスプラス」においての窓割れは可変戦闘機のスピード感とパワーを観客に知覚させるに当たり最大値を出すものであり、それは痛快な気分になれる。「パトレイバー2」のそれは東京が破壊されることへの恐怖を深く想像させる補助となる。

 

窓割れとは、僕の中で「美麗さ」と「カタルシス」の象徴なのだ。おそらく僕はずっとそれを追い求めていたのだろう。

 

そんなことをスマホの画面の割れから想起した。

 

 

 

 

普段こんなことばっか考えてますよ~ということをアピールしたいだけの駄文でした。嘘ですVtuberとラーメンと卑猥なことしか考えてません。 おわり

 

 

*1:ここでは「悲劇による精神浄化」の意として扱う。