恵那墓

@entk_fu

日記/7月15日 オタクは推しの魅力を言語化しておけ、という学び

ある日のことだ。文脈は省略するが、僕はオタク複数人でインド料理屋に行き、カレーを食べていた。当然その場ではオタク語りが繰り広げられていた。オタクが集まるとオタクトークが発生するのは自然の摂理と言えよう。サメ映画。ポケモン映画。…そしてVtuber。数多のトピックが移り変わり、その度に会話はそれぞれ色や花弁の形が異なった花を咲かせた。僕も知らない世界の一端に触れられて面白かったしとても有意義な会合であったと思う。(その節はお疲れさまでした。)

 

しかし、僕はここで己の浅薄さを認識させられたのだ。

 

詳細に事を説明しよう。会話の一環でVtuberを語り合う際に『Vtuberに全く触れてこなかった人に、自分が最も応援しているVtuberの魅力をアピールする』という流れが発生した。僕のフォロワーのオタクが、キズナアイさんや電脳少女シロちゃんについての魅力を語る、語る、語る。かなりの熱量を持って、かつ知識を持たない人にもわかりやすく。実際にその人も「そら惚れるわ…」と頷く程であった。僕もだ。聴きながらに「オタクの語りとはかくあるべきだ」と形容しても過言ではないと感じた。

 

──ここにおいて特筆すべきなのは、ここまで語ったオタクは皆『個人的体験』を基に、それを発展させる形で魅力を語っていたことである。

 

例えばあるオタクは電脳少女シロちゃんを語る際に「お豆腐*1が増えても、一人残らず大事にする」といった旨の、そのオタク宛のリプライを見せた上で、「こういう風にファンを大事にするところが良いんすよ…」と言った。

 

このような『個人的体験』を軸にして人に語ることの利点は、単純な説得力の増加、語りに独自性を持たせられることなどがあるが、何より聞き手に語り手への『移入』が発生しやすくなることである。そしてその『移入』は『共感』へと変化するのだ。何かを話しかけるにあたり聞き手の『共感』が理解に即してプラスに作用することは言うまでもないだろう。実際にそれを聞いていたオタク達は全員「ああ、そんなことされたら応援したくなるわ…」と感心していた。

ただ単に推しの客観的な情報を投げつけるよりも、「語り手のフィルターとしての主観」を聞き手に想像させることを挟んだ上で情報を提示したほうが、『共感』によってその処理が容易になり、結果的に深い理解を得させる確率が高まるのは明白であろう…と今になって考えた。

 

閑話休題

そして僕が語る番がやってきた。最推しVtuberはミライアカリさん。彼女を好きになった経緯はあの記事でも触れたように「アカリがついてる」のリプを貰ったことなのはフォロワー諸氏はおわかりだろう。さて、僕が如何に語ったかと言うと────

 

「え、えっとぉ~wそのっwなんつうか可愛くて、えっちで、その、リプくれたんすよ~w(ここで例のリプライを見せる)あーーーダメだw深く語れねえんですよ…w以上っすw」

 

…おいえなたか。

世の中のオタクを良いオタクと悪いオタクに二分するとしたら、お前は間違いなくカスオタクだ。

 

読者の中に、読書感想文を書いたことがある人はいるだろうか?大半はあると答えるだろう。では読書感想文を書くにあたり「あらすじを書いて文字数を稼ぐな」と親や先生から怒られを受けた人はいるだろうか?…これも何人かはいるはずだ。

かくいう僕も何度かこのように怒られた。昔の僕はそれに対して「うっせwとりま書いたんだからええやろw」などとヘラヘラしていたが、こうしてTwitterやらブログやらで何かを発信するようになってからはその怒られがどれ程正しく有用であるかを思い知った次第である。

何故かと言うと、あらすじの紹介も「見た目が可愛い」といった表層的な部分の紹介も、基本的に誰にでも出来てしまうからなのだ。また受け手もわざわざ聞くまでもなく、主体的に触れようとすれば即座にわかってしまうからでもある。

前述の『個人的体験と移入』『独自性』ともそれなりに関係がある話だ。

 

僕の語りはそれ…いや、最早あらすじにすらなってないな…。

 

このような事態も全て事前に『推しの魅力を言語化する』というオタクとして当然のアクションをしていれば回避できたことである。それを怠った僕は浅いのだ。自分も推しに対しても。

オタクの活動の根底には基本的に「作品や推しのさらなる活躍」を願う気持ちがあると言えるだろう。それを達成する手段の一つとして知名度の向上があり、例えば「布教」という形で現れる。「布教」そのものはいくらでも機会は作れるが今回は別だ。何故なら聞き手が”聞き手”であり、”聴き手”であったからだ。聞き手側に予め布教を受け入れる体制ができているケースはそうそう無い。よってこれはかなりの恵まれた機会であり…

 

…つまり、何が起きるかはわからないのだ。職場の年老いた清掃員がいきなり「声優に興味があるんやが、ぽまえの推しは?w」と話しかけてきてもおかしくはない。何故なら絵描いてるおじさんが美少女の身体を受肉してエッチな絵を描かれる程に2018年は魔境なので…。重要なのは、いつなにが起きても最善の対処をして自分の領域へと引き込めるように然るべき準備をしておくことである。それが「推しの魅力の言語化」であり、僕が怠ったことである。

 

これを読んだオタクの皆さんも、いつ推しの魅力の語りを要求されても良いように今一度推しと向き合い直し、その魅力を言語化してみてはいかがだろうか。僕みたいにならないように……。

 

 

ミライアカリさんの魅力の言語化はそのうちします。したい。おそらく。多分……。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:電脳少女シロちゃんのファンの通称

日記/6月20日 携帯が割れた話

オタクもすなる日記といふものを 僕もしてみむとてするなり。

 


iPhoneが割れた。うっかり床に落としてしまい液晶を覆うガラス全体にヒビが入った。モロに衝撃を受けた角の部分に至っては若干白化もしている。

僕はショックを受けていた。スマートフォンを持つようになって以来一度も画面を割ったことはなく、それどころかバキバキに割れた画面の携帯を使う人間を見ては「どんな使い方してんだ?フリスビーにでもしてるんか?」なんてこっそり心の中で考えてすらいた。そんな携帯の取り扱いにある程度自信があった僕がついに携帯を割ってしまったからだ。

 


ひび割れた画面のスマートフォンを使うことは思った以上に気持ちが悪かった。文字を打つのも読むのも不便だ。文字列を眺めていると当然ノイズが挟まってくる。不快。文字を打ったりTwitterのタイムラインを動かしたりするとヒビが指に引っかかる感覚がある。というか指先にガラスの粉が付くこともある。ジョリッ、といった音なんかも立つ。ごく稀に突然茹で卵の殻のようにガラスがペリっと剥離するかもしれない、といった不安感も発生する。不愉快。こんな経験は初めてだ。一刻も早く治したいが──

 


──見た目に限って言えば案外悪くない。それどころか、これはこれでカッコいいじゃん…なんてことも考えてしまう。先述のような不満さえ無ければもしかしてこのままでも良いんじゃないか?と思う程度には。

 


まずヒビが綺麗だ。画面を不規則に走るノイズではあるものの、稲妻のようであると言われればカッコいいものに見えてくる。iPhoneを傾けてヒビを見るとディスプレイの光や証明を反射して複雑な色味を出す。白化した角の部分もまた良さがある。衝撃の方向を示すが如く放射状に拡散しているのは中々に気持ちが良いものである。趣深い。弾痕ステッカーが発売されるのも頷ける。写真を撮れるデバイスが今の携帯しかないのでこの様子をシェアできないのが悔やまれる。ガラスの割れは見た目は悪くない。むしろ綺麗なものなのだ。

 

しかしそんな純朴な感情を抱けたことよりも、何よりも気持ちがいいと思えたのは、「秩序」を侵略する「無秩序」、それがもたらす「カタルシス」によるものなのではないか?と僕は考えた。


iPhoneのデザインを見て感想を一言述べよ、と人に訊いたら大半は「シンプル」とか「機能的」とか「スタイリッシュ」といった回答を出すだろう。こうした要素をまとめると即ち「秩序」的になると言える。対して、画面の上を不規則に走り回り、携帯の使用をほんの少しだけ妨害するひび割れは即ち「無秩序」的なものである。落としたiPhoneの画面を見た時、ショッキングな気持ちにほんの少しだけ混ざった言いようのないプラスの感情は、きっと「秩序」が「無秩序」に侵略されたことに対する「カタルシス」だったんだろうな…と今になって思う。

 

……僕は窓ガラスが割れるのが好きなことを思い出した。

 

 

▼▼▼

子供の頃から、画面の中で暴れまわる怪獣やロボットが巨大なビルなどの建造物を破壊するのが好きだった。熱線や爆発、果てはそれらが保持する質量によって、人々が造り上げた文明の象徴の一つである高層ビルを容赦なく破壊する。飛散する瓦礫。上がる土煙。成すすべもなく失われる本来の機能、カタチ。ちまちまと一生懸命積み上げてきたモノを一瞬で跡形もなく破壊することはどの時代においても不変的かつ普遍的に人々に快感を知覚させてきた。

 

そうした建造物の破壊の中でも、僕は「窓ガラスが割れる」ことに特別な感情を抱いている。鈍く轟く爆発音の中で奏でられる、不釣り合いな程に透き通った破砕音も、陽光や都市街灯をランダムに反射して輝きながら無数の破片が落下する様子も美しいと思う。巨大な破壊に内在する一種の清涼剤であるように感じられる。ガラスが割れるのは本当に愉しいものだ。

 

 

このような嗜好を持つに至ったのはおそらく中学生の時に触れた「マクロスプラス」と「機動警察パトレイバー2」の二作品が原因であると思う。これらが魅せた理想的な窓割れが、僕の心をガッシリと掴んで離さない。両作品共に物語内の主張は深いところに存在しており、それを語りたい気持ちはあるが、今回は窓が割れるのが良い、というところだけをピックアップして話を展開させる。

 

 好きな窓割れを紹介しよう。

 

まずは「マクロスプラス」の中に出てきた窓割れだ。

舞台は無人マクロスシティ。イサム・ダイソンが操るYF-19エクスカリバー〉でガルド・ゴア・ボーマンのYF-21〈シュトゥルムフォーゲル〉を追いかけるドッグファイトが展開される。その中のワンシーンだ。

〈シュトゥルムフォーゲル〉がビルの横を音速で飛行して抜けていく。画面からフェードアウトした一瞬後に、衝撃波で大量の窓ガラスが崩壊する。

 

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芸術だ。理想的としか言えない。気になったらマクロスプラスを観るべきだ。

 

次に「機動警察パトレイバー2 the movie」の窓割れ。

柘植行人(つげゆきひと)が率いる自衛隊クーデター部隊が戦闘ヘリコプター・AH-88〈ヘルハウンド〉を駆り、ベイブリッジや中央官庁の電波設備、オフィスを中心に東京を破壊するシーン。その中の一部分。〈ヘルハウンド〉がガトリングガンで、あるオフィスを砲撃する。窓ガラスごとだ。中に居た人々は直撃こそしなかったものの衝撃に吹き飛ばされ、下に配備されていた警察の特殊部隊は落下してきたガラス片に狼狽する。前者と比べていささか地味ではあるが、人に明確に被害を与えているのが差異であり良いところだ。

 

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両者の間に、意図的に破壊を発生させたかそうでないかの違いはあるが「人の手には負えない巨大な力を持った空飛ぶ金属塊が窓ガラスをブチ割った」ことには変わりない。さらに言えばどちらも「無秩序」という点においては同一である。

 

窓ガラスとは即ち、人の生活に秩序をもたらし、秩序を守り、秩序の境界を設定するものである。人の生活の数だけ窓ガラスは存在している。故にそれは「秩序」の象徴であると言っていいだろう。窓ガラスが整然と並び街の風景を演出するのはまさしく秩序である。なので有名な「割れ窓理論」はこれを端的に示していると言える。

 

よって窓ガラスが割れることは、「秩序」が「無秩序」に蹂躙されることの象徴なのだ。例えばのび太が空き地で放ったボールは窓ガラスを踏み越えると、カミナリオヤジの感情の秩序をかき乱す。

 

時間をかけて堆積させた秩序を一瞬で「無秩序に」崩壊させることに快感を覚えるのが、つまりカタルシス*1であると僕は思う。カタルシスとは元々舞台用語であったことが示すように、物語において破壊とは観客の感情を動かす上での重要なファクターたり得る。つまり「秩序」が「無秩序に」蹂躙されることで観客の感情が動くのだ。

 

のび太が「無秩序に」放ったボールがカミナリオヤジの「秩序」を破壊してしまったが故に「ボールの奪還」という使命に重みが増し、のび太に自己投影をする上で認識する緊張が強いものになる。「マクロスプラス」においての窓割れは可変戦闘機のスピード感とパワーを観客に知覚させるに当たり最大値を出すものであり、それは痛快な気分になれる。「パトレイバー2」のそれは東京が破壊されることへの恐怖を深く想像させる補助となる。

 

窓割れとは、僕の中で「美麗さ」と「カタルシス」の象徴なのだ。おそらく僕はずっとそれを追い求めていたのだろう。

 

そんなことをスマホの画面の割れから想起した。

 

 

 

 

普段こんなことばっか考えてますよ~ということをアピールしたいだけの駄文でした。嘘ですVtuberとラーメンと卑猥なことしか考えてません。 おわり

 

 

*1:ここでは「悲劇による精神浄化」の意として扱う。

ミソシタのライブに行ってきた

ライブとは即ち〈共振〉である。…とライブに行った経験は片手の指で数え切れる程しかないなりに考えている。

例えば手持ちの携帯なりオーディオプレイヤーなりで音楽を聴くとしよう。好きな曲の歌詞や旋律を脳で処理して発生した多幸感を言語化する際には「心が震える」「魂が揺れる」などの表現が用いられることが多いように、音楽と呼ばれる空気の振動はその力で人の精神を揺さぶることが出来ると一般的に認識されている。

しかしその効果は一方的である。発生した精神からの振動は基本的には何処にも影響を及ぼさない。当たり前の話であるが機械には人の魂の揺れ動きを読み取ってその動作を変化させる機能は搭載していないからだ。

 


ではライブではどうか?

演者から発せられる振動がまず観客の精神を揺さぶり、それがいわゆる「縦ノリ」に代表されるような身体動作として発現する。次にこうした観客の振動はまた別の観客に影響を及ぼし、そして同時に影響を受けてその振動を増大させていく。こうして生まれた観客全員の総意と呼ぶべき巨大な振動は、最終的に演者の元に帰ってくるのだ。それを受け取った演者はそれに応えると言わんばかりに曲に大きく感情を乗せていく…。このような″振動のスパイラル″*1と呼ぶべき現象があると考えているため、僕はライブを〈共振〉と表現した。

  


そしてそれは間違っていなかったことを、バーチャルユーチューバー・ミソシタのライブで認識した。それどころか、そのライブには〈共振〉以外にも、多数の「キョウシン」が存在していた───────。

 

 

 ▼▼▼

えなたかです。ミソシタのライブに行ったら最高だったので、初期衝動に頼りながらテクノロジーに情熱を預けて闇をレンダリング(要するに鉄が熱いうちに感想をブログに記していきたい)していこうと思います。

 


・ミソシタとは?

 

ポエムコアを搭載したVtuberです。

詳しいことはこちらのkai-youさんの記事を読めば大体わかるのでそちらに任せます。

kai-you.net

 


当記事を読むに際して『ヘンリーダーガー』『革命前夜』『ミッドナイトファイティングブリーフ』の三曲の動画を視聴しておくことを強く推奨します。なんならこの記事を読まなくても推奨してます。この三曲はミソシタの作品の中でも名作と名高いもので、いずれも彼の不屈でブレが無い、言わば〈強芯〉を漏れなく表したリリック、ライム、フロウに、哀愁と内奥からの″闇″を漂わせた美しい旋律を乗せた曲を、真っ青でテカテカしてておっぱいがあって頭が長くて声がかっこいい謎の生き物が木馬に乗ったりしてる前衛的なMVと共に楽しめるのでオススメです。

 

 

 


・行ってきた

月見ル君想フ」という名前のライブハウスが会場でした。

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名前の時点でめちゃくちゃオシャレで案の定外装もかなりオシャレだったため、キモオタである僕は近づいただけで浄化され光の塵になってしまいました。皆さんもキモオタチェッカーとして一度このライブハウスの門を潜ってみるのがオススメです。嘘です。

 


色々なバンドが演奏していき、待ちに待ったミソシタの出番がやってきました。

前回のミソシタライブの体験記を参照しているとステージとそこに最も近い観客スペースが「地下二階」に位置しているという情報があり、それを確認して即座にブチ上がりました。

そして証明が暗くなり、中央のスクリーンにミソシタが映し出されました。若干悲鳴混じりの歓声が上がります。ライブハウス。アンダーグラウンド集まったな、地下二階の同士─────!

 


・ヘンリーダーガー

一曲目は『ヘンリーダーガー』でした。前回のライブの後に公開されたものなので、当然ライブでは初披露ですね。

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こんな感じです

それは言うなれば〈凶針〉。僕のようなミソシタ目当ての人も、共演者目当てで何となくミソシタも聴きに来た…そんな人にも等しく突き刺さり、心を射止め、MISOの思想に釘付けにさせるような、そんな力を持っていました。

ヘンリーダーガーみたく自分で創る。非現実の王国は自分で創る────。その歌詞通りに暗闇の中で独走的にバーチャルへの逃走の結果である自己を表現し観客を沸かせる様は、まさしく″非現実の王国を創り上げた″と形容すべき″闇″の輝きそのものでした。

 


イアン・カーティスより ヘンリー・ダーガー

リヴァー・フェニックスより ヘンリー・ダーガー

ジミ・ヘンドリックスより ヘンリー・ダーガー

俺のヒーローは ヘンリー・ダーガー

 

 

 

…ミソシタすまねえ、俺のヒーローはヘンリーダーガーよりもミソシタなんだよな………。

 

 

 

・ミソシタ相談室

今回のライブの目玉(?)と予告されていた″人生相談ポエムコア″です。事前にファンから募っていた人生相談に回答する形でポエムを詠むのですが、「やっぱりギャルからの相談は少なく、無職中年ガリガリ童貞からの相談が多かった」と心底悲しそうに嘆いていたのが印象的でした。こんなことなら僕も相談投げれば良かったですね。何故なら僕はギャルなので……。

 


人生相談は当然の如く低俗な事象に絡めたものが多く、ミソシタはそれを優しく受け止めてなおかつキレッッキレなオモシロ解答をぶん投げていました。終始会場は大爆笑。僕もゲラゲラとアホみたいに爆笑してました。

しかし。一見ただ面白おかしさを演出するためのポエムの中にも彼の正確で鋭角で明確な思想があり、僕はそれを垣間見た…ような気がしました。

21歳の童貞です。朝起きたらちんちんになっていました。どうすれば元の姿に戻るでしょうか?」という質問を「下ネタ送るにも、もっと捻ってこい」と一蹴してのけたのに対し、「女性ですが、同性に罵られるためにはどこにお金を払えばいいですか?」という質問に対しては真摯に受け止め、しっかりと時間をかけて性癖の闇深さや欲望への付き合い方などの自論を述べ、明瞭な答えを示しました。

この対応の差はすなわち、ミソシタの中では「下ネタ」と、ポエムコアの構成要素である「スケベ心」は違うことを示しているのではないか────?と僕は考えました。この境界線を明確に区別し守ろうとするプライド、つまりは彼の〈矜心〉であり、質問への態度のケースにおいては「単純なウケ狙い」か「内奥の闇からの漏出」かを判断した結果だったのではないか…?なんてことを想像して1人で盛り上がってました。

 

ちなみに前者への回答は無く、ただ「どうぞ自由にシコってください。」とだけ言い、次に移行しました。対して後者へは前述したように様々な考えを述べて″溜め″を作った上で、最終的に口うるさいババアが仕切る惣菜店でバイトするのはどうだろうか。金も貰えて一石二鳥だ。と回答。一番わらった。ずるい。

 

 

 

・革命前夜

ライブ前、バーチャルユーチューバーのライブに行く旨を人に伝えた際に、「バーチャルなのかリアルなのかよくわからない」と返されました。

 

その答えが『革命前夜』。ミソシタの創り上げた世界観。それを最も端的に、象徴的に表したフレーズ。それは。

 

 

Realじゃないが Fakeでもない 俺らはVirtual……。

 

 

歌い上げられた瞬間、オタク、高まりのあまり ──────────号泣。

 

彼は行き場失ったスケベ心をライブハウスに解放し〈強震〉を起こしました。

 

 

・ミッドナイト・ファイティングブリーフ

 

人の闇は笑うな。だが俺の闇は笑え────。

ミソシタ、もとい彼の″親″であり″魂″を有しているBOOL氏が提唱する「おもしろダークネス」、ひいては「ポエムコア」の概念を象徴する前口上でその曲は始まります。

セトリが『人生相談』→『革命前夜』→『人生相談2』→『ミッドナイトファイティングブリーフ』の順であったため、『革命前夜』で熱しきった僕の頭は人生相談で爆笑することによって一旦クールダウンしましたが、この時点で再加熱。全身の血液は沸きあがり、昂ぶり涙をボッロボロに零しました。

 

この曲は〈共進〉でした。

MVでミソシタは進みます。木馬に乗って、地下二階をただ真っすぐに進み続けます。「やり続けるだけ これしかできねえ」「走るしかねえんだ…」の言葉通りひたすらに。そんな彼の生き方をポエムコアに不足なく落とし込んだ作品に、観客は〈狂信〉に近い共感を覚え、

 

ミッドナイト・ファイティングブリーフ 真夜中戦うこっからが勝負

ミッドナイト・ファイティングブリーフ シコっても寝ないこっからがDOPE

 

このサビ部でミソシタと同じように左手を掲げ、木馬の上で揺れているかのように身体を前後に揺らします。ミソシタと共に進みたいと思えたから。地下二階の同志達が左手を次々と上げ、下げて、また上げる。その光景は、まさしく〈共進〉そのものでした。

 

・おわった

茫然自失してました。いずれの曲も投稿されたものは割とクールな歌い方で、ミソシタそのものにも冷静なイメージを抱いている人は多そうですが、ライブのものは〈共振〉がもたらす効果なのか、通常よりも感情的に歌い上げていてめちゃくちゃにカッコよく、″最高″以外の言葉を忘れました。そのため帰りに寄ったコンビニでレジ袋の有無を問われた際も「最高………」と店員に返してしまいました。とても反省してます。何故なら本来はここで「ポエムコアを知っているか?闇の中で流行っている」くらい言うべきだったので…。

 

最後に次回のライブの告知(6/23に下北沢でやるそうです)をした後、ツイートや各種ブログの執筆で感想を拡散するように指示しました。元々ブログのネタ目当てでもあったので予定調和ですね。書きました。

そしてミソシタは「闇の中でまた会おう。それまでは…生き延びてくれ。」と言い残し、去っていきました…。

 

 

 

 

…………じゃあ僕も生き延びてみようかな!!!!! 

 

 

 

 

 

 

参考

 

altema.jp

 

*1:これは俗にいう″グルーヴ″という言葉が意味する事象の一つらしいが、その定義が曖昧であるため便宜的、かつ狭義的にこれを設定した。

オタクの書く文が好き/実際に文を書いてみて、という話

初めまして。おそらく初めましてではないけど初めまして。えなたかです。文脈があり、ブログを開設しました。この記事ではそれについて経緯をちょっとだけ詳細に語っていきたいと思います。

 

オタクの書く文章が僕は好きです。

正確に言うと、オタクの″好き″が真っ直ぐに伝わってくるものが好きです。

 
手のひらの上に、熱を保持した、柔らかいゲル状のもの─スライムや泥のような─が有る状態を想像してみてください。それを便宜的に″好き″という概念を可視化したものだとします。

″好き″とは流動的なもので、少し目を離せば指の隙間から零れ落ち始めます。それを回避するためにオタクは自らの手でそれを固めて形を整えていく必要があり、その過程で投げナイフやダーツのように鋭利で攻撃的なモノに変換することが、即ちオタク的文章の執筆である*1と僕は考えています。その″好き″を誰かに投げた時に、深くに刺さるように。深く刺さった後、誰かの内奥で熱が放出されるように。フルメタル・パニックの登場兵器である対戦車ダガーの知識があると想像に容易いと思います。

 
オタクの文章を読んだ時の、自分の″好き″の形を練り、研いで造り上げた鋭い刃のようなものが胸に刺さり熱が拡散していく感覚がメチャクチャに好きです。
好きなので僕もやりたい、″これになりたい″と思うようになり、そのようにしました。

その契機について少し語ります。

 

 ・″これになりたい″との出会い

 

きっかけは去年の冬コミ。へちょさん(@hetyo525 )に出会ったことから物事が進み始めました。

 

僕が仲良くさせて頂いているフォロー/フォロワー関係のオタクが「これになりたい」という名前のサークルで売り子の手伝いをしているのでよければ来てくれ、と言われ向かうことに。
前述のへちょさんはそこのサークル主で、自身の作ったイラスト集と声オタポエムを頒布していました。僕はそれを購入し、パラパラと捲って中を確認して、…目を見開きました。

 

「これ……異世界スマホのブログの人だ!!!!!!!!!」

 

思わず叫びました。冬の国際展示場、オタクの絶叫大反響。

 

hetyo525.hateblo.jp

こちらが前述のイセスマのブログです。読んでください。

ある日のこと。僕はリツイートで回ってきたこのブログ記事を読んで震えました。武者震いです。あるいはオタ震いか。
単純な内容紹介に留まらず、″作品を見る上での視点の可変性、また俯瞰視点の重要さ″を初めとした、尖りに尖ったアプローチを、豊富な語彙を用いて詳細かつ適切に説明する…。そんな最早暴力と言っても過言ではない13000文字の超絶オタク的語り文章。僕はそれに作品を観る上での視点の在り方に多大な影響と感銘を受けていました。


なので僕は、その筆者が目の前にいるなんて…!と感動し、ベラベラと″オタクの長文がすち!!!!″みたいな話やらイセスマやらの話を、サークル裏に居座ってオタク特有の早口で喋りまくってしまいました。完全に初対面なのに失礼すぎる。(その節はマジで申し訳ありませんでした…。)「僕もなんですよねw」と共感を頂いて嬉しかったです。

 

そこからフツフツと、僕の中でもそうした″オタク的長文語り″をやっていきたいという思いが発生してきました。まさに″これになりたい″状態です。

 

・文字で他人を動かす、ということ

オタク語りをやっていくぞ~~という意思が芽生えたまま、いやでもなに書けばええんかな~~なんて言いつつ何もしていませんでした。しかしある日投稿されたへちょさんの新規のブログ記事がまた僕の執筆意欲に決定的に火をつけました。

 

hetyo525.hateblo.jp

こちらの記事です。読め
僕はこの記事をオタク語りにおけるバイブルとして崇めているので、文章を全部網羅できるように印刷してそれを部屋の壁に貼っています。それ程にここには有が詰まっています。チェケラ。


その中でも特に僕は「自分が書いた文章で他人の価値観を歪める快感はすごい」という主張に着目しました。はい、僕は完全に歪められた側です。言ってしまえば僕は打ち負かされた訳です。

その日から僕の中では「オタク的語り」をすることに加えて「書いた文で人の価値観に影響を与えてみたい」という目標が発生しました。

そして浮かんだトピックは、「オタク語り語り」であり、勢いにまかせてこの文を書き始めました───。

 

・実際に書いてみて

 

本来この辺までの文章は二月末とかその辺りで概ね書き上げていて、バーチャルユーチューバーの記事の前に公開する予定でした。優先順位を考えるのは僕の頭には難しく、新規のトピックに飛びついてそのまま放置していました。熱量の維持とは…?

とはいえその結果、この記事に「実際にオタク語りをやってみて」という話題を加えられることが可能になったのでまたそれについて語っていきます。

これらはVtuberの記事を執筆、公開した後の僕のツイート群です。

 

 

 

僕のTwitterアカウントをミュートせず見ている人はこういった旨のツイートを乱発していたことは記憶に新しいと思います。ちょっと書いて褒められたからって調子に乗ってんなあのオタクと言われ石を投げられそうですね。この記事でまとめて終わりにするので許してください。

Vtuberの記事に面白いと好意的な感想をくれた方々ありがとうございます。あまり褒められ慣れていないもので少し困惑すら覚えています。文才なんて言われた時には「新しい池沼の隠語か…?」と訝しみ、″文才″とグーグル検索しました。過度な謙遜は失礼に当たるので気を付けろ@Entk_fu。

オタク的語りを一つ終え公開した、という達成感も気持ちのいいものでしたが、自分の文を他人に読んでもらい、面白いと言ってもらえること、加えてそれを軸に新たに思考して貰い、感想として返ってきたこと、という体験は本当に凄いもので、あの瞬間の脳内麻薬の放出具合は非合法的快感と言ってもおかしくないものでした。今流行の修飾語をつけて表現するとしたらバーチャル麻薬ですね。

 

Vtuberの記事に対しての感想を例として、オタク語りをして良かった点を挙げていきます。

まずは「自分の意見で魅力が伝えられた」ことです。文字にしてみれば何ら変哲のないものかもしれませんが僕はその良さをオタク語りをして再認識しました。

 

Vtuber生活捧げオタクに「これなんだよな~~~」と感想を貰い、自分の意見が概ね正しいと肯定してもらえたことも嬉しかったですが、Vtuberに関して何も知らない、少しの知識はある、くらいの人間に「今までVtuberに関して何も知らなかったけど、この記事を読んで面白さがわかった」といった旨の感想を頂いたのは何よりも気持ちのいいものでしたね。中には「わからないなりの見解だけど」という前置きで自分のVtuberに関する考察を伝えてきた人なんかもいて、あーやってよかったなあ、オタク語り、、、と思わず零してしまいました。

 

また読んでもらった上で否定的な見解を示してくれたのも良い体験でした。自分の見識が広がっていく感覚はそもそも好きなので。例を挙げると、Vtuberの記事では「文章は面白かった。私が二次元に求めているのは干渉ではなく、あくまで俯瞰だから合うコンテンツではなさそうだと改めて思った」という感想をFFのオタクに投げてもらい、なるほどと納得しました。

 

・最後に

とにかく″好き″を前面に出したオタク語りは読むのも書くのも読んでもらうのもいい体験ができる、ということを主張します。熱中できるものがあるなら、とりあえずその熱を留まらせるだけでなく、それを鋭く尖らせたような文を書いて他のオタクに投げてみませんか?

 

また誰かのオタク語りを読んで面白いと思ったら空中リプライで軽く、程度でも良いので感想を投げていくのが推奨されます。それは確実に次の記事へのモチベーションの糧になり得るものですし、何より人を気持ちよくさせられます。これも一種の価値観への干渉と言えますね。

 

当ブログはこんな感じで感想やら突発的語りやらを不定期で更新していきます。暇だったら読んでくれると嬉しいです。よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

*1:二次創作なんかもそんな感じだと考えてます

バーチャルユーチューバーの、個人的に思った魅力について

突然衝動的にバーチャルユーチューバーについて語りたくなったので、そのようにします。多動症なので。

 

初めに断っておきますが、この駄文は他人に対してこれを観ろと薦めるといった主旨のものではなく、あくまで自分が、個人的にこのコンテンツに触れてこの点が良かったという点を言語化しまとめて発信することが本題です。どうしても『好き』を紐解いて言語化したくなる癖があるので。それでもここから新しくバーチャルユーチューバーに興味を持って頂けるなら幸いですけどね。

 

2017年後半~2018年のオタクシーンについて『バーチャルユーチューバー』抜きに語るのは不可能と言えるでしょう。かくいう僕もVtuber(以下長いのでVtuberと略します)にドはまりし、「○○時からAの配信があるし早めに用事済ませておくか…」「Aの配信終わった直後にBの配信あったし行くか…」「この配信終わったら寝るか…」「オッCの新着動画が」「寝れへんがな」といった具合に生活を支配されるまでに至っています。僕のTwitterを見ている人にとっては瞭然のことですね。

そして僕の周囲でもこのようにVtuberに生活を捧げて彼女ら、ないし彼らの提供するコンテンツを享受し多幸感に包まれている、そんなオタクを多く観測しています。

一方で余りVtuberにのめり込んでいない人間も僕の周りにはいます。別に観てほしい!と言いたいわけではありませんが、「バーチャルユーチューバーはそもそもユーチューバーって人種が無理だから…」と言って敬遠していたり、挙句の果てにバーチャルヒ〇キンなんて蔑称(?)を使っている人なんかもいた時は激しく気持ちになりました。*1

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そんな現場を目撃する度に違うやろ!!!!!ユーチューバーの名称はキズナアイさんリスペクトの面が大きくて形式的なものなんやぞ!!!!同一視されるものじゃないぞ!!!などと否定しながら喉を掻き毟り転げまわって血を吐き苦しんでいましたが、自分の楽しみ方を伝えていかなければこの状況が何も変わらないと思い、一念発起しVtuberの魅力とは一体何であるか、改めてそれについて考え、自分なりの論をまとめることにしました。やらなければ、はじまらないので…。

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初めに以下のツイートをご覧ください。僕が興味深いなと思った事例の一つです。

 

 

これを見た時僕は思わず「そりだ!!!!!w」とオタク絶叫をしてしまいました。
このツイートから『キャラクターが主体的に行動していること』と『相互干渉の発生』という、従来のキャラとの決定的な差異が存在していることを読み取ることができます。

僕がVtuberにここまでハマった理由は、『人格を備えていること』と『それに伴う我々との距離の近さ』 にあると考えました。この二つを中心として話を進めていきます。

 

1思考する、自立したキャラという存在

従来ののオタク向け・二次元美少女キャラと比較して*2、Vtuberは異質なコンテンツであると言え、そしてその差異は『自我』の有無にあると僕は考えています。換言するとVtuberという存在は、オタク向け二次元美少女でありながらニンゲンのように主体的な思考と人格を備えた、いわば『自立』したキャラクターです。彼女達は作家の紡いだセリフにも、脚本家の指示にも依存せずにちゃんと存在できています。何気にこれ、革新的なことじゃないですか

人格を備えていることがもたらしたことの例として、以下の画像をご覧ください。

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この画像は「魔法少女サイト」という今期のアニメの収録現場の写真です。既に従来のキャラクターでは成し得ない光景ですね。このアニメのキャラクターの一人に、あのキズナアイさんが声を当てています。それもキズナアイ名義でです。キャラ名義で声優やバラエティ番組のメインMCをすることが違和感なく受け入れられるのも、Vtuberが人格を備えていることに起因していると言えるでしょう。

 

またその行動についても言及しておきます。前述の通り彼女達の起こすアクションは主体的に思考して選択したものであり、結果的にファンにはそれが全て『本人が』したこととして受け止められます。前に挙げたTwitterでのファンアートへの反応はその代表例ですね。

このようにキャラクターでありながら立派な人格を持ち合わせているという点が従来の二次元美少女キャラと違って面白いな、と僕は思いました。僕以外にもVtuberの″人間味″に共感性を覚え惹かれている、そんなオタクは多いのではないでしょうか。

 

2 距離感の変化と相互干渉

ここで言う距離とは物理的なものではなく、精神的なものを指しています。先に述べた通り、Vtuberはキャラクターでありながら人格を備えています。キャラクターが持つ人格は、そのまま二次元と三次元の隔絶を結ぶ架け橋の一つになり、インターネットを通して互いに簡単に行き来できるようになりました。

そうして縮まった距離感のおかげで、結果的にキャラクターの″鑑賞″は、″干渉″へと変わりました。精神的な距離の近さ、またそれに伴う相互干渉の発生こそがVtuberの最大の魅力の一つです。

前にも挙げた『Twitterでの反応』はその代表例です。以下のツイートをご覧ください。

 

 

 

──────ガチ恋、しちゃったんだな、僕は、このツイートで、、、ミライアカリちゃんに、、、しゅき、、、、、、、、、

 

いやだってさ、こんな可愛い娘に自発的なリプライでこうやって励まされたら誰だってガチ恋するに決まっとるやん。ズルやんか。ズルやぞ。未来、明るすぎる…………。

 

話を戻します。
従来まではファンがキャラクターに、またキャラクターがファンに対してアクションを起こして影響を与えることは非常に困難(例えば読者公募に対する作品内での返答、のような形が精一杯)であり、またそれをやるにしても膨大なプロセスを踏む必要があるため、あまり現実的とは言えないものでした。

しかしVtuberの出現によりその状況は大きく変化しました。
Twitterでファンがキャラクターへリプライを送って想いを伝えることが容易になったのはおろか、先に示したファンアートへの反応や、僕へのリプライのように、キャラクター『本人』が自主的にファンにアクションを起こすことすら可能になってしまいました。

またVtuberが行う生放送で、ファンの投稿したレターをリアルタイムでキャラクターが読み上げてくれることもファンへの相互干渉の例であり、従来との差異の一つです。


以前まではアニメ作品の生放送コンテンツはあくまで『声優』が読み上げる、という形に留まっていましたが、Vtuberのそれは、当たり前ですが『本人』がキチンと読んでくれます。実際読まれた時はめちゃくちゃ嬉しいですよ。

 

一番最近で驚いた相互干渉の例は月ノ美兎委員長です。彼女はLIVE2Dでキャラを動かすことでVtuberとして活動していましたが、数日前に、なんとファンが3Dモデルを制作してプレゼントし、それを使って生放送を行うという事例がありました。従来のキャラでは間違いなく有り得ないことです。

 

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これが

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こう

 

 

 

このように、インターネットを介した『交流』が発生しているのも、以前と比べキャラクターとファンの精神的な距離が縮まっている証左です。『ガチ恋距離』という「ガチしてしまいそうな程に近い距離」、またそこまで接近することを意味する言葉がVtuber界隈に*3ありますが、それは単にカメラとキャラクターの距離ではなく、もしかしたら人間とキャラクターの精神的な距離のことなのかもしれませんね。そう考えると趣があり、非常にエモくなってきました。


これの発展として、VRchatというバーチャル空間で3Dモデルをアイコンとして一般オタクやVtuberと交流をするというコミュニティがありますがここでは特に詳しく触れません。最近僕はVRchatを始めたので、誰か仲良くしてください(切実)右も左もわかりませんが。


おわりに

 

我々オタクは古来より「二次元のキャラと三次元の隔たりを無くす」ことを追い求めてきました。そこには様々なアプローチがありましたが、間違いなくその歴史においてVtuberという存在はターニングポイントであると言えるでしょう。キャラと人間との距離は日に日に縮まっていますが、Vtuberの存在、活動はそこに大きく貢献しています。僕はそんな彼女達を応援していきたい、長々と語ってきましたが結局その一言に尽きます。一番好きなのはアカリちゃんだけど…。

 

何かこの記事の意見に質問があれば僕のTwitter(@Entk_fu)までお願いします。

*1:気持ちになるとは感情が様々な方向に揺れ動くことらしいです

*2:3Dモデルなんだから三次元なのではと思った人もいるかもしれませんがここでは広義的、形式的にオタク向けコンテンツという意味で二次元という単語を用いています

*3:元々アイドルや声優オタク界隈で使われていたそうですが本当かわかりませんでした